経歴に関する10の質問


坂口嘉政,坂口よしまさ,Sakaguchi Yoshimasa

Q1.家族構成は?

A1.父と母、そして上から姉、兄、私、妹の4人兄弟の賑やかな6人家族で育ちました。子どもたちの主体性を尊重し、一度も進路についてあれこれ口を挟むことなく温かく見守り支えてくれた両親はもとより、それぞれ違った個性を持ち己の心の声に従って道を進む姉・兄・妹のことも年齢関係なく尊敬しています。

 大学進学を機に福岡の実家を出て単身東京で暮らし、社会人3年目に結婚して以来、福岡に戻ってきてからも妻と二人暮らしをしています(が、いつかは猫を家族の一員に迎え入れることがささやかな夢です…)。

坂口嘉政,坂口よしまさ,Sakaguchi Yoshimasa

Q2.どんな中学校生活だった?

A2.サッカー部の部長としてサッカーに明け暮れていました。固い上下関係がチームを委縮させるのは勿体なかったので、実力主義を持ち込んでピッチ内での「○○先輩」呼びを廃したり(いちいち先輩をつけるとタイミングを逸することもあるんです)、練習最後のミニゲームで負けたチームのメンバーが学年関係なくグラウンド整備をするようにしたりと、伸び伸びできるチーム作りを意識していました。ただ、今となっては恥ずかしいのですが、友人から「触れたら切って怪我しそう」と言われたくらい何事にもはっきり白黒つけたがる尖った中学生だったはずです…。私の不遜な態度によりご不快な思いをされた当時の関係者の方々、本当に申し訳ございません…。

坂口嘉政,坂口よしまさ,Sakaguchi Yoshimasa

Q3.どんな高校時代を過ごしたの?

A3.サッカー部に入っていましたが、高校1年生の秋に大きな怪我をきっかけに約2か月の入院生活を余儀なくされたこともあり、その後は顧問の先生のご厚意で原則不可と言われた文化部(生徒会執行部)との兼部を認めてもらいました。高校2年生の秋から1年間、有難いことに選挙で当選して生徒会総務(通常の生徒会長に相当する役職)を務めましたが、何か大きな業績を残せたわけでもなく、今振り返ると「もう少しうまくできたんじゃないかな…」と思っています。

 修猷館は校則もなく、学業でも部活でも課外活動でも何でも、とにかく自由に積極的に取り組むことを後押しする風土が根付いていましたが、怪我や部活(サッカー部、執行部)の他、アメリカへの海外研修等も含めてさまざまな経験を積んだことは、ひとえに支えてくれる方々がいるお陰だったことを痛感した高校生活でした。

Q4.浪人時代は辛かった?

A4.現役時代は塾にも通わず自学で受験勉強をしていましたが、心のどこかに「何とかなるだろう」と根拠のない過信があり、最終的には12点足りずに不合格となってしまいました。怪我や病気ではなく、自分の実力不足で弾き返された経験は初めてだったので、インターネット上で合格発表を見て自分の受験番号がなかった瞬間の記憶は今でも鮮明に覚えています。

 最初のひと月くらいは現役合格を果たした友人たちのことが妬ましく思えたときもありましたが、「鳥は向かい風の中、飛び立つ」という座右の銘に支えられ、自分の弱さや不甲斐なさと向き合い続けたこの1年間が必ず自分をもっと高みに連れて行ってくれると信じ抜くことにしました。

 ただ、現役時代も浪人時代も、志望する大学の前期・後期しか出願しなかったため、周りからはさぞかし無謀な人間に見えたことでしょう…。

坂口嘉政,坂口よしまさ,Sakaguchi Yoshimasa

Q5.どんな大学生活だった?

A5.「東大までの人(=入学したことに満足して怠ける人のこと)」が多かった中、一年間余計に時間をかけた自分は勉強には真摯に取り組み、大学3年生の前期は「全優(成績評価が全て最良の「優」)」の成績を残すなど4年間を無駄にすることはしませんでした。文科二類から経済学部に進学してからは、マクロ経済学と経営戦略の2分野でゼミ(ゼミナール)に所属し、国単位のマクロな視点だけでなく一企業レベルのミクロな単位でも経済について学びましたが、この経験は行政の世界に入ってからも、そして政治の世界に進んでからも自分の考え方や物事の捉え方に大きな影響を及ぼしています。

 他にもサッカーサークルの副代表を務めたり、第二外国語のスペイン語に加えてイタリア語とドイツ語も履修して、幼少期に半年間住んでいたドイツのウルムという街に再び家族と訪れ、その後兄と二人でサッカー強豪国のイタリアとスペインを旅行したりするなど、実りの多い大学生活を過ごさせてもらいました。

Q6.大学卒業後の進路は、いつ、どうやって決めたの?

A6.大学で主に経済学・経営学を学んでいたので、大学3年生のはじめまでは漠然と「起業して伸び伸び好きなことを仕事にしようかな」と思っていました。しかし大学3年生の夏休みに「自分がこれまでの人生で喜びや幸せを感じたことはどんなことだろう?自分が本当にやりたいことは何だろう?」とひと夏かけて考え抜いた結果、「世のため、人のためになることがしたい」という結論に至り、「政治の世界」と「行政の世界」の二択まで絞りました。

Q7.なんで大学卒業後、最初に「行政の世界」に進むことにしたの?

A7.政治家として政策を提案するうえで、根拠も何もないただの思いつきの提案では誰も耳を貸してくれません。実際に政策決定プロセスを理解しないことには始まらないという思いもありましたし、たまたまこの日本という国に生まれたからには、国民生活の土台を作り動かす「国」の実情を知りたかったというのが当時の素直な思いでした。

坂口嘉政,坂口よしまさ,Sakaguchi Yoshimasa

Q8.内閣府ではどんな仕事をしていたの?

A8.入府1年目に配属された沖縄振興局では、部署の総括(まとめ役)として年間予算が約3,000億円にものぼる沖縄振興政策(特にハード面)の旗振り役の一端を担っていました。

 2年目以降の大臣官房公文書管理課では、通常入府4年目に就く係長のポストに2年目から座らされ、当時森友学園や加計学園等の問題をめぐり公文書管理の在り方が国会やマスコミで大炎上していた中、国の行政機関が指針とする「行政文書の管理に関するガイドライン」を策定後初めて抜本的に改定するという大仕事に中核的立場で貢献しました(当時の公文書管理制度に関する安倍総理大臣や菅内閣官房長官等の国会や記者会見での答弁の殆どは私が原稿を書き、その多くが殆ど修正されずに実際の答弁に使われたことはささやかな自負です)。

 沖縄振興局時代も公文書管理課時代も、直属のラインの上司(課長・課長補佐・係長等)だけでなく、大臣秘書官や他省庁の関係部署等のカウンターパートの方々を含め「人」には本当に恵まれましたし、年次にそぐわない濃い経験をさせてもらったことは人生の中でも得難い財産となりました。

Q9.なんで内閣府を辞めたの?

A9.これは当時も多くの人から聞かれましたし、中には「折角エリートコースにいるのに何て勿体ない」という人も少なくありませんでした。ですが、人の価値は「どこにいるか」ではなく「何をするか」で決まるというのが私の考えです。いくら人から「凄い」と言われたとしても、他の誰でもない自分に対して誇ることができず、さまざまな圧力が存在する中で自らの信念を貫くことさえできない世界に身を置き続け、自分の時間と能力を擦り減らし続けることは、少なくとも私にとっては耐え難いことでした。

 内閣府では多くの人に支えられ、普通は入って数年の若造なぞ許されない領域まで足を踏み入れることができたということは、本当に得難い貴重な経験だったと思っていますが、内閣府を辞め、福岡に戻って自分の手で未来を切り拓こうとした当時の決断を後悔したことは一度もありません。

Q10.河合塾ではどんな仕事をしていたの?

A10.進学アドバイザーという立場で、大学への合格を目指す高校生・高卒生のサポートー具体的には、教科を教えること以外の全て(進路指導・学習指導・生活指導等)―を担っていました。志望校や学力から性格に至るまで実に多岐に富んだ生徒たちや保護者の方々と出会い、ともに走り続けた3年間は、「目の前の人のために力を尽くす」ことの意味を思い出させてくれた貴重な日々でした。

 前途洋々たる若者がそれぞれの道へ高く強く羽ばたいていく、その一助となれたことを心から誇りに思っています。