福岡県福岡市にて誕生。4人兄弟(姉、兄、自分、妹)の下から2番目として生まれ、幼い頃から家中のあちこちを動き回る活発な子どもでした。
小学校に入ってすぐは身体も小さく、プレハブ校舎の化学物質が肌に合わずにアトピー性皮膚炎を患っていたこともあり、自分に自信がない子どもでした。1つ上の兄の影響もあり、小学校4年生までは野球少年でしたが、2002年に日韓ワールドカップを観てからはサッカーの虜となり、毎日放課後に校庭でサッカーをしていました。当時クラブチームに入りたかったのですが、飽きっぽい私の性格を見抜いていた母からの許しが出なかったため、上級生に交じって遊んでいたお陰で、そこそこ上手なサッカー少年に育った気がします。
中学校に入ってからもサッカー大好き少年だったので、迷わずサッカー部に入部しました。納得できないことがあれば先輩にも歯向かう生意気な中学生でしたが、部長に就任してからは極力上下関係を廃し、皆が伸び伸びとプレーできる環境づくりに努めた記憶があります。性格面は白黒はっきりつけたがる頑固な性格であり、また、渡されたオール5の通知表をわざと机の上に開いて置くような、今振り返ると自分でも相当嫌な奴だと思えるほど尖った中学生でした(今となっては恥ずかしい黒歴史です…)。
高校時代は今の自分を形成する貴重な経験の数々を味わいました。
まずは高校1年生の秋に左膝の半月板を損傷して手術を受けたのですが、滅多に起こらない術後感染に罹ってしまい、そこから3度の手術と2か月にわたる入院生活を余儀なくされ、それまで当たり前のように過ごしていた日常生活を送れることがどんなに幸せなことなのか、かつてないほど痛感しました。
高校2年生の秋には、他の2名の候補者との間で行われた生徒会総務(生徒会長に相当する役職)の選挙に立候補して当選し、1年間の任期を務めることができました(今思うと、総務として学校生活を改善する施策をもっと企画立案できたのでは…と反省することもありますが)。
また、高校3年生の時には、海外研修の一員に選ばれてアメリカのニューヨーク・ワシントンを訪れ、世界有数の大都市の持つエネルギーを肌で感じることができました。
サッカー部と生徒会執行部の兼部を初めて認めてくれた当時のサッカー部の顧問の先生をはじめ、多くの方に陰に日向に支えられてきたこそ、いろいろなことにチャレンジすることができました。「周りに感謝の気持ちを抱く」ということの本当の意味を知った高校時代でした。
現役時代に独学で受験勉強をしていたものの、志望校(東京大学)の合格まであと12点足りずに不合格となったため、失意の中、浪人することを決意しました。自分の実力不足がゆえに次のステップへ進むことを絶たれたという経験は実に苦いものでしたが、自分の弱点を一つ一つ潰しながら模試で良い判定が出ても決して油断せず勉強を進めた1年間は、「地に足をつけて前へ進む」という己の生き様を形作る得難い経験となりました。
1年余計に時間がかかってしまいましたが、晴れて東京大学文科二類への合格を果たしました。奨学金制度を利用しながら一人暮らしをさせてもらっていたこともあり、東大に合格した時点で満足する「東大までの人」が多い中でも周りに流されず、大学1・2年生の教養課程を利用して文系・理系問わず貪欲に知識を吸収しました。大学3年生から経済学部に進学してからも学業に真摯に取り組んだ結果、通算GPAは3.9を超えるなど4年間を有意義に過ごした記憶があります。
また、サッカーサークルの副代表を務めたり、欧州旅行(幼少期に半年間住んでいたドイツのウルムという街に家族で再び訪れた後、兄と二人でサッカー強豪国のイタリアとスペインを訪れるという行程)の準備として第二外国語のスペイン語に加えてイタリア語とドイツ語を勉強するなど、比較的時間に余裕のある大学生活を満喫することができました。
大学3年生の秋から独学で対策していた国家総合職試験(旧国家Ⅰ種試験)の大卒経済区分に4位で合格し、官庁訪問(面接)を行った内閣府・文部科学省・厚生労働省の中から内閣府への入府を決断しました。
入府1年目は、沖縄振興局の総務課調整係の係員として配属され、1972年の本土復帰以降も様々な課題を抱えていた沖縄について、道路・空港・港湾の整備といったハード面から子どもの貧困問題といったソフト面に至るまで、年間3千億円を超える規模の予算を抱える部局の総括(取りまとめ)の一員として働きました。
2年目は大臣官房公文書管理課の企画・調整係(総括)に異動となったのですが、ちょうど異動の直前に森友学園をめぐる国有地売却に関する公文書管理の在り方について問題視され始めていたこともあり、内心「きな臭い時期に危ない部署に異動になってしまったな…」と思っていました。その予感は不幸にも的中し、森友学園だけでなく加計学園の他、自衛隊の日報等についても公文書管理の問題が取り上げられ、ひいては官邸や国の行政機関全体における公文書管理の在り方について連日のように国会やマスコミで取り上げられる事態となり、いわゆる「大炎上」状態の中で仕事をしていました。入府2年目の頃から、通常は4年目に昇進する係長のポストに座らされ、他部局や他省庁であれば8年目以上の課長補佐(又はその上位者)が担うことが殆どである仕事(国会議員への説明や総理大臣・官房長官・大臣答弁の原案作成など)も担っていたため、議員会館で顔を合わせる他省庁の官僚や日々やり取りしていた大臣秘書官等からは「そんな若い年次でそんなことをするのはあり得ない」と幾度となく言われた記憶があります。
心身ともにボロボロな生活でしたが、3年と少しという短い期間にもかかわらず非常に得難い濃密な経験をさせてもらい、どの部署でも上司を含む素晴らしい仕事仲間に恵まれたことは、本当に幸せに思っています。
霞が関での生活に別れを告げ、意を決して地元福岡に戻ることにした私が次なる勤務先として選んだのは、かつて浪人時代を過ごした河合塾福岡校でした。
約3年間を通じて、志望大学への合格を目指す数多くの高校生や高卒生を担当し、それぞれ志望校だけでなく学力や性格が異なる生徒たちに真摯に向き合い、「目の前のこの生徒のために自分は何ができるか」と常に自問自答しながら、精一杯のサポートをしてきました。己の力不足を嘆くこともありましたが、生徒や保護者から信頼していただき、直接感謝の声をいただいた瞬間は、今でも鮮明に記憶に残っています。
「国民のため」と言いながら実際にやっていることは自分にも他人にも誇れない仕事が多かった官僚時代に忘れかけていた、「人のために働く」という感情を思い出させてくれるとともに、それぞれの目指す道へ向けて懸命に努力する若者たちの隣を並走した日々は、政治の道へ歩みだす自分へ何にも代えがたい刺激と学びを与えてくれました。
2023年4月9日執行の福岡市議会議員選挙に城南区から立候補し、3,670名の方の期待と信任をいただき、初当選いたしました。定員6名のうち最下位の6番目にギリギリで滑り込むという不甲斐ない結果でしたが、公職選挙法に違反してまで自分の顔と名前を売り込むことにいそしむ候補者達とは一線を画し、一切ルールを破ることなく当選できたことだけは誇りに思います。
選挙期間中に街中ですれ違った方、集会に参加してくれた方など多くの方から、ときに涙ながらに「あなたは他の政治家とは違って言葉に重みがある」「初めて政治家の集会に来たけどすっかりファンになった」「死ぬまで応援してる」など性別や年齢を問わず温かい言葉をかけていただいたこと。福岡市全土で私一人しか“無所属・新人”の候補者が当選できないほど、政党や団体の組織票がものをいう厳しい世界であること…。
様々な思いがありますが、いずれにせよ私にとって政治家になることは「目的」ではなく「手段」の一つです。当選はゴールではなくスタートにしか過ぎません。ここからの4年間、何のしがらみもない立場を活かし、一歩一歩地に足をつけて「世のため、人のため、あなたのため」に尽くしてまいります。